エッセイ、のようなもの。

双極性感情障害と生きる日々のこと

自分の夢ってなんだろう?を考える。

 

私はたぶん、夢見がちな子供だったと思う。

夢見がちという言い方が合っているのか分からないけれど、いろんなことに興味を持つ子供で、興味の対象が変わるたびに将来の夢も変わるような、移ろいやすい一面をもっていた。

それに加えて、すべては自分の努力次第であり、誰もが努力すればなんにでもなれると信じていたような子供だった。

 

小学生のころ同級生に勉強を教えるのが楽しいと感じた時期は教師になりたいと思ったし、ニュース番組で政治に対して「ん?」と思ったときは政治家になろうかと思ったこともあった。ピアノを習っていたのでピアノの先生になりたいと思うこともあれば、脳科学にはまったときは脳科学者になりたいとも思った。

中学生以降は勉強が好きで、勉強だけは私を裏切らない友達だなんて思っていた頃は、医師や薬剤師、弁護士に興味を抱き、それを目指して勉強に励んでいたこともある。母や姉が医療の道を歩んでいたので医療系の仕事には関心があった。

心を病みだした時は必然的に心理学に興味をもって、臨床心理士も思い浮かべていた。

 

だけど、心を病んでいくうちに教室に入れなくなって不登校になって、勉強すれば具合が悪くなり、次第に勉強しようとするだけで症状が出たりフラッシュバックを起こしたりするようになった。

勉強にさえ裏切られることがあるんだと知った。

医師や薬剤師、臨床心理士や弁護士になるには、大学もしくは大学院まで通い国家試験に合格する必要がある。

教科書を開くことさえできなくなった私には、それはもう絶望的なことだった。

 

自分の死を望むようになり、かつての夢は砕け散り、それ以降の私は将来のことを考える余裕すら失くしていた。

仕事探しや自分探しをせず、自分を死なせる方法ばかり探すようになった。

 

(前置きが長くなったけれど、)

でも、今こうして振り返ることができるようになったということは、将来のことについて考える余裕が少し、私にできたということなのだろう。

 

ただ、過去に何になりたかっただろうと振り返ってみても、またこれを目指したいというものがない。

これは今だから言えることなのだけど、私がこれまで持ってきた夢というのは正直、自分には能力が足りない、向いていないものだったと思う。

 

だから、私は自分の夢についてもう一度考える気になった。

 

明確にこの仕事がしたい!というのはまだないけれど、こういうことに携わりたいと思うことは2つある。

 

1つは、文章を書くこと。

いずれは小説やエッセイなどを書きたいという気持ちがあって、それは他に生活費や経験を得る仕事をする傍らで行えたらいいなと思っている。

もう1つは、不登校の子供や生きづらさを抱える若者を支えていくこと。

これはまだ情報収集の段階で、生きづらさを抱える子供や若者を支えていくためにはどんな仕事があって自分に何が必要なのかを模索している。

 

自分の書く文章が誰かの心の支えになれたら嬉しい。

誰かの抱える生きづらさをなくしてあげることはできなくても、生きることを支えてあげることができたら嬉しい。

本当の意味で自分のことを救えるのは自分だけ、と私は思っているので、苦しんでいる誰かを私が救ってあげることはできないと思う。

だけど、自分のことを救いたいと思っている誰かが、その自分を救う手伝いならできるかもしれない。

そんなことを思っている。

 

 

とは言っても、私はまだ自分自身の救い方が分かっていないし、自分の存在は害悪だと思っているような人間で、こんな私が誰かの心の支えになれるかなんて分からず想像もつかない。

でも、そうなりたいと思う。

 

心を病んでからというもの努力することを放棄してきた私だけど、今こうして将来のことを考えることができて、なりたいものも思い描けるようになったのなら、それを具体化して、これからはまた努力していくべきだ。

 

死を望んで頑張らなかった期間が長くて、そんな自分を責めたくもなるけれど、その期間を経たから今こうなりたいと思えるようになったのだろう。

だったら、自分を責めなくてもいいんじゃないか?と自分に問う。

自分を責めるんじゃなく、これからは努力するのみ!である。

 

 

自分の将来について、夢について、考えられるようになったのは第一歩のはずだ。

 

 

仕事探し、頑張らねば。

 

充電器に繋いでいたスマートフォンを確認すると充電が100%になっていたので、画面を閉じて充電器から外した。充電器のコードを束ねて棚の所定の場所に仕舞い、受信したメッセージを見ようとスマートフォンを開くと、充電は99%になっていた。

「え…なんか、ごめん…」

なぜかそんな気持ちになる。

100%まで充電しなければならないという決まりはないだろうけれど、

「100%になったばっかりだった?ごめん。もう少し繋いでおいたほうがよかった?」という気持ちだった。

そんなことを問いかけたところでスマートフォンが答えてくれるわけもない。

こんなことでくよくよしたくないのに小さなことにもくよくよして、まったく疲れてしまう。

 

過眠になり一日中睡魔が攻撃してくる。

今朝は7時過ぎに一度目覚めたものの、攻撃してきた睡魔と戦う気力なく再び眠りにつき、お昼を過ぎてから母親に叱り飛ばされてようやくのそのそと起きた。

他の人にかかっている重力と自分にかかっている重力が同じ大きさだということを疑いたいほど体が重かった。

それでも夕方は攻撃してくる睡魔と対峙して、散歩に出た。

 

小さな交差点で信号待ちをしていると、後ろから私に声をかけてくる者がいた。

振り返ると、黒のスーツをピシッと着たショートヘアの40代くらいの女性が私のすぐ斜め後ろに立っていて、背の高いその女性は私の顔をのぞきこむような姿勢をしている。

方やスーツをピシッと着こなしメイクアップ完璧の女性、方やノーメイクで目を前髪で隠し幽霊のように歩く女(私)で、実にアンバランスなその二人が向き合っていることがとても奇妙な光景に思えた。

 

なにより私は、自分のような人間が彼女の視界にしっかりと映っていたことが驚きだった。

よく、自動ドアにさえ存在を感知されない私である。人間に認知されたうえに声をかけられるだなんて…と少し感動さえ覚える。

 

その女性が何だったかというと、仕事の勧誘であった。

美容系のサロンで働きませんか?と問われた。

ますます、ノーメイクで目を前髪で隠し幽霊のように歩く、美容とはかけ離れたような私に声をかけてきたことが謎に思える。

いや、むしろかけ離れているからいいのか、いや、仕事がなく困っているように見えたのかもしれない。あぁ、おそらく後者だろう。

 

眠気で頭が回らず曖昧な返事を繰り返していたら、「じゃあもし興味がありましたらご連絡ください」と名刺を差し出され、ありがとうございますと素直に受け取る自分がいた。

仕事したい、働きたい、その気持ちは確かに存在する。

 

 

少し無理をしてでも仕事を始めた方が、この滅茶苦茶な睡眠リズムや生活習慣などが矯正されるのではないかとも考える。

私のような人間を雇ってくれる場所があるかは分からないが、まずは面接を受けないことには何も始まらない。

仕事探しをし、応募しないことには面接も始まらない。

嗚呼、頑張らねば。

 

もうすぐ、私にとって魔の3月がやってくる。

 

 

 

依存と堕落。

 

不眠に悩んでいたというのに、今度は過眠のスイッチが入ってしまったようだ。

中学生の頃から私には不眠か過眠かしかなくて、中間がなかなかない。

 

睡眠もバラバラ、食事もバラバラ、精神と身体もバラバラで、堕落への道を歩んでいる気がする。

 

 

私はきっと依存体質なのだろう。

突然なにを暴露しているんだと思われるかもしれないけれど、これは真面目に考えなければならない問題だと思う。

ここ数年、自分が依存体質であるという自覚が芽生え、それがにょきにょきと成長していることに気付いた。

それは、最初はちょっと土をいじれば隠せるくらいだった芽が、見て見ぬふりをし続けてきた挙句に、誰が見てもそこに植わっていると分かるくらいに。

 

特に私には、人や不健康なものに惹き寄せられていく性質があるらしい。

ゲームやネット、漫画やアニメなどは一口齧った程度で、依存どころか嵌りもしなかったけれど、人にはコロッと、不健康なものにはサクッと、それは呆気ないほどに傾く。

 

誰かに依存すればいずれその人を傷つけてしまうし、私に依存なんかされたらその人の幸せを滅茶苦茶にしてしまって不幸に陥れてしまうかもしれない。

不健康なものに依存すれば自分を傷つけ続けて、家族や私を想ってくれている人を悲しませてしまう。

 

でも、その依存なしには、私は生きていけないのではないかと思う。

自分を保てないのではないかと思う。

何をもって保つといい、何をもって保てていないというのかその境界線も分からないくせに、そう思ってしまうのだ。

誰かを傷つけるか、自分を傷つけるかしなければ生きていけないということの悲惨さたるや。

 

誰かを傷つけるか自分を傷つけるか、その二択ならば私はもちもん後者を選ぶけれど、自分を傷つければそれを悲しむ誰かがいて、結局はその誰かを傷つけることになるのだ。

そう思うと、自分の存在が、自分の生きていることが、害悪としか思えない。

 

あるいは、人に依存したり不健康なものに手を出したりする愚行を、自分を保つため死なないためという正当的な理由に押し付けて許されようと思っているだけかもしれなくて、もしそうなのだとしたら私は自分が許せないし、他者も私を許すべきではないだろう。

ますます私は害悪である。

 

ひとは誰しも何かしらのものに依存しているのだろうと思うけれど、大抵の人は無害なものや趣味の範疇で依存しているから、問題にならないのかもしれない。

 

 

私の依存は、おそらく堕落と比例する。

 

ブレーキを踏まなければ。

そしてそのブレーキを踏み続けていなければならない。

ブレーキペダルを踏む力を緩めると車が進んでしまうクリープ現象のように、緩やかに依存へと、緩やかに堕落へと、進んでしまう。

そうしていつしかガードレールを突き破って、谷底に堕ちるのだ。

 

ブレーキは、どこにあるのだろう。

まずはそれを見つけなければならない。

 

夜の旅

 

孤独感を身に纏い、絶望感をリュックに背負う。

不安を履き、希死念慮と手をつなぐ。

ポケットには薬とナイフ。

 

月も星もない真っ暗闇。

風が唸る荒野。

 

恐怖感に震える体に鞭打って、

踏み出すしかないみたいだ。

 

明けない夜はないってひとは言うけれど、

この夜が明けることはあるのだろうか。

 

地獄に生きている。

 

私の一日は絶望感で始まる。

 

私にとって眠りから目が覚めるということは、

悪夢からの解放であり、眠りからの追放。

悪夢という地獄の終わりであり、現実という地獄の始まり。

 

寝ても地獄、覚めても地獄。

生きても地獄、死んだところで地獄。

 

 

白い月が浮かぶ空の下を散歩しながら、そんなことを思った。

 

 

自己嫌悪

 

昨日は珍しく朝5時に起床し日中も寝ていないにもかかわらず、夜になっても一向に眠気がおとずれなかった。

それでも23時ごろにベッドに潜り込み電気を消したけれど、一縷の期待は当然のごとく裏切られて眠れず、深夜1時、ベッドの上で体育座りをしてぼーっとしていると、どんどんと覚醒していく感覚があった。

軽躁の始まりか、これで一睡もできなかったら躁に突入するのか、躁に突入した勢いで仕事に応募するか、というところまで考えて、いやもしそのまま仕事に辿り着けて働き始めたとして鬱になり出勤できませんなんてことになったら怖い、という思いに至った。

しかしそんなことを言っていたら一生社会に出られない気がして、怖さでいえばこちらの方が怖い。

まだ怖さを感じるということは躁まではいかないだろうと思い少し安堵した。

とはいえ自宅療養期間も半分を過ぎたため、そろそろ仕事を探し面接まで漕ぎ着けなければ。

恐怖感のあと少し安堵し、今度は焦燥感に覆われる。

この思考の流れはほんの数分の出来事だ。

まったく私の精神はなぜこんなにも忙しいのだろう。

 

ここまでの文章をスマホのメモ機能に書き起こしながら、こうしている間もスマホブルーライトが覚醒の手助けをしていることに気づき、その愚行を恥じる。

気持ちをリラックスさせようと好きな音楽を流してみるも、脳内を掻き回す雑音にしか感じられずに、一曲目が終わる前に電源を切った。

 

自分のしていることが、情動の不安定さが、自分でも理解し難い。

 

最終的に眠りにつけたのは朝方で、昼頃に起床した。

上体を起こしても自己嫌悪で潰されそうになる。

結局のところ軽躁にもならず、鬱鬱としている今日だ。

 

 

本当はブログには、読んでほっこりとしてもらえるような文章を書きたい。

読んでくださる人に語りかけるような文章を書きたい。

そう思う一方、ここまで書いてきた私の文章はほっこり要素が皆無であり、偉そうに言葉を並べているだけで思いやりのない文章だ。

 

それでも読んでくださる方がいて、スターをつけてくださる方がいて、読者になってくださる方がいる。

本当にありがとうございます。

そしてこんな文章でごめんなさい。

 

 

いま私の頭を割って開いたら、嫌悪という文字が勢いよく大量に飛び出してくるのではないだろうかと思うほど、自己嫌悪で溢れている。

自分を嫌悪したところで、意味なんて無いのにな。

 

変わらなくちゃ。

 

本との出会い。

 

本を一冊読み終えると、読了した達成感よりも喪失感のほうが強大にある。

本を読んでいる間はその本が心のよりどころみたいなもので、それを読み終えるということはその心のよりどころを喪失したような感覚に覆われるのだ。

出会えてよかったと思える良い本であればあるほど、その喪失感は大きい。

二度三度と最初から読み返してもいいのだけど、初めて読んだときの衝撃や鮮やかさは超えられない。

 

昨年から好きな作家、金原ひとみさんのエッセイ本を読んだ。

「パリの砂漠、東京の蜃気楼」という本である。

これこそまさに、出会えてよかったと思える一冊だった。

中古で入手したために表紙の角に擦り傷があるのが玉に瑕で、新書で購入すればよかったと後悔しているけれど、その傷さえも愛しくなるくらい本の内容は魅力で溢れていてものすごく価値があると感じる。

 

私は本を読むときは必ず、紙やペンもしくはスマートフォンのメモ機能を用意し、好きな文章や心打たれる文章、素敵な言葉を即座にメモしながら読み進める。

最後はそのメモをパソコンに打ち込み、印刷し、ファイリングしていて、時々それを眺めるのだ。

この「パリの砂漠、東京の蜃気楼」も同様。

メモした文章はA4用紙6枚分にもなった。

 

私は本が好きだ。電子書籍よりも紙の本が良い。

そして私は文章が好きだ。言葉も好きだ。

本や文章や言葉に何度も心を支えられてきた。

 

本当に出会えてよかったと思う本はたくさんある。

前述の金原ひとみさんのエッセイや小説もそうであるし、太宰治の「人間失格」と「斜陽」、坂口安吾の「堕落論」、本谷有希子さんの「生きてるだけで、愛。」、歌手Coccoさんのエッセイ本4冊、高野悦子さんの「二十歳の原点」などだ。

メモした文章を綴じたファイルがもう限界を迎えそうなので、新たなファイルを買わなければと思っている。

 

一冊を読み終えたときの喪失感や寂しさを埋めようと、私はまた読みたい本を探す。

今現在は読みたい本が3つある。

燃え殻さんの「ボクたちはみんな大人になれなかった」

七井翔子さんの「私を見て、ぎゅっと愛して(上・下)」

又吉直樹さんの「東京百景」

 

書店に行きたい。

今の時代ネットでも購入できるけれど、私は書店に赴いて自分の目で見つけ、自分の手で触れ、自分の手でその場でお金を払いたい。

 

だけど最近、書店に行くと心が苦しくなるのだ。

本の数だけそれを執筆した作家さんがいて出版社の方がいて、それぞれに思いや人生がある。本に登場する人物の数だけ、それぞれ抱えているものや生き方がある。

そう思うと胸のあたりが締め付けられるように苦しくなって呼吸も浅くなってしまうから、書店に滞在できる時間は短い。

自分の生き方を嫌悪して悲観して否定して、自信がないからだろうか。よく分からない。

 

それでも私は新たな本との出会いを求め、また書店に足を運ぶ。